熱海の坂道と、レトロな建築群に誘われて。気が付くと旧糸川赤線の岸辺へ……

投稿日:6月 28, 2020 更新日:

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出不精ですがたまに旅行とお散歩をします。 近代(主に明治・大正・昭和初期)の雰囲気や洋館、産業遺産などの 史跡に惹かれがち。

あるとき知人に、東海道線の車窓から山が見えると熱海を感じる、と言ったら、それは海の間違いではないのかと苦笑されてしまった。

錦ヶ浦の岬

伊豆半島の北東にへばりつくような、縦長の熱海市へと電車が滑りこんでいくとき、街の背後にある緑の起伏がどんどん近づいてくるのを眺めるのが常だ。

到着後に改札を出て、入り組んだ坂を下りつつ散策をするのだが、乱立する魅力的な古い建物に幾度も足を止められてしまう。ただ浜に行こうとするだけでもかなり骨が折れる。そのためか、私の中の熱海が海の風景と結びつくことはほとんどない。

結局、いつも終着点のない路地や小径に迷い込み、奇妙なほど郷愁を誘う時代の空気に囚われて……そこで長い一日を過ごすことになる。

レトロな商店建築の数々

素朴なフォントが魅力的

一般的な看板建築ほど際立った装飾は施されていないものの、平坦に設えた正面の壁に大きく屋号を掲げ、存在を主張する商店が熱海には無数にある。

簾の向こうの柵が気になる

これらが本当にあちこちに散らばっているので、目や首がいくつあっても足りない。おまけにカメラのシャッターを押す指が興奮で震えるから困ってしまう。

彼らは角を曲がったり、別の通りに出たりすると突然出てくるのだ。素知らぬ顔で。

シンプルではあるが、そのぶん壁の質感や文字の形の印象が強く、それぞれが纏う雰囲気の違いをきちんと感じられるのが面白い。二階の戸袋や欄干、廂など、細かな部分をなめるように観察するのは至福のひととき。

味のある茶色

上の写真の生花店は戸袋部分の葉のレリーフが目を引く。凹凸が和菓子の落雁のようで、非常に可愛らしい。

大きさの違う窓と戸袋が二つ

こちらは屋根の下にうっすらと「鮮魚魚金」の文字が。

ちなみに、もしも屋号が右から左に書いてあれば戦前に竣工した可能性が高いが、残念ながら今回は見つけることができなかった。火事や地震、老朽化による取り壊しなど、市井の建築は簡単に消えてしまう儚さを抱えている。

熱海はかなり良い状態で残っている古い建物が多いが、やはりいつ無くなってしまうか全く予想できないので、思い立ったら早めに訪問するのが吉だろう。潮風にかすれた字は風情があるが、どこか切ない。

住宅街にある塗装屋さん

角にあって目立つ店

また、これらは塔屋や時計台でこそないものの、交差点に建つ隅丸建築の仲間だ。角に面する部分を直角ではなく平らにし、入り口や窓を設けて店名を掲げている。比較的数が少ないため、見かけると嬉しくなってしまうもののうちの一つ。

……わくわくする気分で坂道に沿って移動し、誘い込まれるように歩を進めた先にあったのは、一見の酒店。だが、二階の欄干にかなり特徴的な趣向を凝らしている。

その奥に鎮座するのは、妓楼を思わせる怪しげな窓だった。

廂の上には……

昔は上に遊女を置いていたのか、その後に建物だけを利用して酒店を営んでいるのか、真偽のほどは知れない。

周囲でも類似の建築を頻繁に見るので奇異に思い、地図を確かめると、すぐ腑に落ちた。ここは所謂「糸川べり」だ。かつての赤線、すなわち遊郭の跡地。未だ風俗店として現役の店舗もあれば、もう廃業している所もある。

自分はぐるぐると歩き回っているうちに、すっかりその中枢へと迷い込んでしまったらしい。

旧赤線・糸川に残る遊郭建築

現役のスナック亜

かなり圧倒される佇まい

糸川べりでは、こんなにも素晴らしく立派な建築が不意に目の前に現れる。正面上部を飾る記号的な蔦の葉や、屋根をふちどる波線模様のリズムが楽しい。

写真は今も営業中のスナック「亜」が入った建物で、側面には古い屋号「つたや」がかすかに残っていた。最近は重要文化財級の物件でもあっけなく消えてしまうことが多いが、まだ取り壊されていないのは本当に驚きだ。

私は当時の街を知りもしないのに、とても懐かしい気分になるのは何故なのだろう。店の件数からして、全盛期の賑わいは想像に難くない。

雲形の装飾

目の前の街灯も味がある

街灯の向こう、海上で壁から飛び立とうとしているのは鷹か、それとも鳶か。

その昔、硝子窓とカーテンの内側から、誰かがそっと空を眺めていた姿が浮かんでくるようだ。戸袋の花や、荒々しく鏝の跡を残した壁の質感も建築として際立っている。これもいつまで見ることができるか分からない。

かつて付近にあった屋号の印象的な店「千笑」や、タクシー乗り場として再利用されていた大きなカフェー建築は、もう跡形も無くなっていた。

眺めているとそわそわする

ここは狭い通りで料理屋と美容室が隣り合う二階。桃色、青色、薄緑色の豆タイルが、未だ艶を失わずに並んでいる。

近年、寂れていた熱海の地を再興しようとする動きが盛んだが、その過程で魅力ある建物が消えてしまわないよう願うばかりだ。街に活気が戻ること自体は素敵なことだと思う。あまりに客足が遠のけば、お店がつぶれて困ってしまう。

人が滅多に来ないうらぶれた雰囲気のまま、秘かにずっと残っていて欲しいのは私の勝手な思いである。

塞がれたドア

こちらは一見すると普通の家にも思えるが、扉には「風俗営業許可」のステッカーが貼ってあった。そんな糸川べりも道を挟んで、一般の観光客が行き交う熱海銀座商店街に隣接しているから、雰囲気の落差に混乱する。

ふと、大通りに出るため角を曲がると、こんな直接的なキャッチコピーの店に遭遇してしまった。

端的なサービスの説明

「二階へどうぞ 安い氣持良い店」

細かな笹の葉の模様があしらわれた磨り硝子に、心がざわつく。叶うなら階段の先に待ち受ける世界を覗いてみたい。

頭の中で、誰も居ない戸の向こう側をじっと見つめ続け……陽が落ちて暗くなる頃、ぼんやりと明かりが灯る様子を夢想した。こちらを招く細い手がある。けれど、それを取る勇気だけがどうしても湧かずに、踵を返して家路を急ぐのだ。

熱海銀座商店街で建物探し

ロマンス座

糸川を抜けた先、小さな商店街の近辺にもレトロな雰囲気がある。

営業終了した古い映画館は外観からしてそれっぽいが、他の土産物屋や飲食店の上階に残された遺構は、意識していなければ見落としてしまうかもしれない。例えば、下の写真はコンビニの二階部分。

かつては照らされていた窓

丸い電球の下に、西洋風の欄間を思わせる半円が二つ並んでいて、硝子窓下の不思議な位置に引き戸があった。半ば廃墟化している。窓は割れ、特に手入れされている様子もないので、この命も風前の燈火か。きっかけがあればすぐに取り壊されてしまうだろう。

一方で、これはその近くの干物屋。

釜鶴ひもの本店

壁を塗り直したり廂を変えたりしたようだが、三階の妓楼風の欄干と窓、戸袋はそのままにしてある。建物はこんな風にして生き残る場合もあるのだ。

時代に置いていかれたような退廃的印象はないものの、形がだけでもあれば過去の面影を偲ぶ契機になるので、結構面白い。間違い探しみたいで。目立たなくなっても確かに息づいている何かの、尻尾を逃さずに掴みたいと思う。新旧が複雑に入り混じる街では特に。

良さの溢れる袋小路

首都圏からのアクセスが良い温泉地として、再び注目を集めつつある熱海の地。

浜辺で遊んでいて、突然不思議な郷愁に囚われたくなったら、海に流れ込む糸川を河口から山へ向かって辿ればいい。そのうちに、存在しない割烹の広間から漏れる楽器の音や、水面に映えて揺れる提灯の火に、すっかり心を奪われてしまうこと請け合いだ。

<TEXT/千野>

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