男の夢と欲が渦巻く場所、遊郭。古くは室町時代、京都・傾城町に足利義満が開いた公娼地が始まりとされる。江戸時代に最盛期を迎え、戦後はGHQの公娼廃止指令により赤線へと姿を変える。その後、1957年に売春防止法が制定されるとともに赤線も廃止となり、華やかな風俗街は姿を消していった。
今回は、かつて「京都最大級の遊郭」と言われた旧・五条楽園周辺を探訪する。
京都最大級の遊郭、五条楽園を歩く
五条楽園は下京区河原町五条、高瀬川と鴨川の中州一帯で栄えた風俗街だ。その歴史は江戸時代後期にはじまり、2010年に売春防止法違反で一斉摘発されるまで続いた。近年まで摘発を逃れてきたのは、この一帯が形式上「お茶屋街」として黙認されてきたからでもある。
五条楽園の入り口となるのが、ここ正面橋だ。高瀬川と鴨川に2本、同名の橋がかけられている。かつては五条新地と七条新地という2つの遊郭であったが、終戦後に赤線として統合し、五条楽園と名付けられた。
1915年に建設された歌舞練場・五條会館。お茶屋の芸妓・舞妓が歌舞を披露する場所として使われた。昭和に入ると娼婦1330人を抱える妓楼として栄える。既に築後100年以上が経過するが、リノベーション会社によって保存再生事業が進められており、良好な状態を保っている。
五条楽園最大のお茶屋建築・本家山友。軒瓦には「三友楼」と当時の屋号が刻印されている。遊郭~赤線を経て、五条楽園が摘発されるまで密かに営業を続けていた。
緩やかなカーブを描いた軒唐破風。高瀬川の岸に堂々と建つ姿を眺めているだけで、この街の妖艶な雰囲気を感じ取れる。
三友のみならず、高瀬川と鴨川の中州を歩き進めれば、今なお多くのお茶屋建築に出逢うことができる。当時の建築物がここまで残っている遊郭跡も珍しい。